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みちのくの伝統工芸山形鋳物は、みちのくの反乱から生まれた。

  いまからおよそ九百年前、平安時代の康平年間に、安倍貞任・宗任の 乱平定のため源頼義が山形地方を転戦した。その時従軍した鋳物師が、山形市内を流れる馬見ヶ崎川の砂と千歳公園付近の土質が鋳物に最適 であることをたまたま発見。 何人かがこの地に留まり、これが山形鋳 物の始まりとなった。

  その後の延文元年(1356)斯波兼頼が山形に入部 し、霞が城を築城。その際、兼頼から鋳物御用を申し付けられた鋳物 師九名が鋳物製品を献納したと伝えられている。


 
1. 900年の古い伝統技術即ち鋳肌の美しい寸法形状の正確な薄肉、小物の製造技術が優秀である。それに近代的技術を導入し、他産地に先がけて技術開発した高級鋳鉄を生産している。
2. 近代的技術開発と併せて設備の近代化は一段と進められ、他産 地と比較しても優秀な近代的合理化設備が導入されている。
3. 品質の優秀な上に鋳鉄鋳物から軽合金鋳物・銅合金鋳物と種々の業種があり、中でも機械部品鋳物、日用品鋳物、工芸品鋳物等の各品種の製品が同一地区内に於て生産される等は他産地に見られない特色となっている。



  鉄鋳物は炭素を多く含み細かい粒になって鉄の表面に出ており、これが油とよくなじむので油が表面に均一に広がり肉や野菜などの焦げつきを少なくする。鉄鋳物の適度な厚みは、普通の薄い鉄板と違い局部的な過熱がなく焦げつきがない。

  又、肉や野菜等をのせても温度が下がらず、熱を均一に伝えてくれるのでおいしい料理が出来る。鉄器の効用鉄分は(特に)現代女性に不可欠とされているので食品からの補給は勿論鉄器からの鉄分補給も見のがせない。貧血防止にもなる。



    「銅町」という全国でも珍しい町名のある山形市。この名の由来は 兼頼から数えて十二代目の最上義光までさかのぼる。

  慶長年間、山形 領主となった義光はご城下の再編成を行ない、鋳物師十七人を鍛治町から隣の町に移し銅町と命名。火を扱う町だけを並べる町づくりをし鋳物産地としての基礎がつくられた。日本における工業団地のはしりと言える。当時の山形の町は、修験道で知られた出羽三山神社の霊験への参詣人が一夏一万人にも及ぶ賑やかな門前町であり、みやげとして求める山形鋳物の仏具、日用品もおびただしい数にのぼった。

  こう して山形鋳物の名声は全国へ広まり、その後、足踏式の「たたら」の考案により山形唐金鋳物(ブロンズ)の技術が確立され梵鐘や灯籠などが鋳造されるようになり、銅町は一大鋳物産地として発展していき時代の流れとともに、機械鋳物も生産されるようになる。

  機械鋳物は終戦後の物資不足を契機として、織機、農機具、鉱山用機械刃物など多くの点数が製造されるようになり、さらにミシン産業の隆盛に伴いミシン鋳物が急激に成長。

  その後も工作機械部品、自動車部品、電機部品等が生産され、売上高も年々増大。いまでは山形鋳物全体の八十パーセント以上にのぼる。

  銅町の誕生から、約四百年の歴史が流れ、敷地の狭隘化と施設の老朽化が進行。労働環境の悪化、作業の省力化、近代化もままならない状況となり、昭和四十八年、日本初の一業種専用工業団地となる山形鋳物工業団地へ工場の集団移転をし「鋳物町」と命名。他産地に比べ設備もいっそう近代化され、昭和五十年には伝統的工芸品として指定を受けるなど、山形鋳物の一千年の歴史にむけ大きく歩みだした。現在は、工芸鋳物、機械鋳物ともに順調に発展。

7企業が公害のない工場として操業している。
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